私が会社を設立した際、1つ心に決めていたことがあります。それは、“社員の夢だけ事業が拡がる会社”。会社は社長としての自分の夢を実現する場ではなく、アプレという仕事をする場に集う人々が、自分の夢、やりたい仕事を実現する場にしたいということです。企業である以上、組織を束ねるルールは必要ですし、収益をあげるためのきちんとした業績評価は必要です。しかし、可能な限り若手にチャンスを与えたい、社員から提案があれば基本的に認める形で物事を進めたいと考えました。
実際、設立と同時に新卒採用をスタートしましたし(当時の編集職は新卒にとってなかなか狭き門だったのです)、社員個々人に可能な限り裁量権を与えるマネジメント(自分株式会社)や、営業から制作までを一貫して対応する仕事スタイル(全員営業全員制作。当社には営業だけを担当する社員がいません!)も、そんな創業時の理念を反映した仕組みだといえるでしょう。
もっとも、一定の歳月を経る中で、会社の核となる考え方が構築されてきます。それは、たんなる制作会社ではなく、企画制作会社であること。受けた仕事をこなすだけの会社ではなく、あるべき商品・手段を自らが提案するコンテンツ会社であろうとすることです。当時に、働く人を支える会社。メディア制作や教育研修事業等を通して、働く人を支える会社でありたいと考えるようになりました。
前回、リクルートの仕事をしたことが学生時代に起業する契機となったと書きました。学生という分際にも関わらず、社会人に混じって仕事ができたこと。また、「起業するなら仕事を出すよ」と言ってくれた方々がいたことで、サークル体を発展的に改組、「早稲田クリエイティブ」という当社の前身ともいうべき会社を設立したのです。
もっとも若気の至りは怖いもの。その後、大学の先輩から労働組合の仕事をする受け皿を作ってほしいという依頼を受け、「現代企画センター」という個人事務所を設立。昼は神楽坂の事務所(ギンレイ会館。今もあるギンレイという名画座が入っているビルです)で早稲田クリエイティブとして仕事をし、夜・土日は平河町の一軒家(先輩がタダで貸してくれた一軒家)で現代企画センターの仕事をするという超ハードな生活をスタートすることになりました。
当社は今でこそ、連合をはじめとする労働組合、および関連組織と数多く仕事をさせていただいています。しかし当時は、労働組合についての知識はほとんどなく、労働組合がどんな活動をしているのか、どのように運営されているか、まったくわかりませんでした。仕事もオーダーされるものをオーダー通りに受ける形で取り組んでいたのが実態で、一つひとつが勉強の連続だったといえるでしょう。
当時の仕事で印象に残っているのが全農林労働組合の40周年記念写真集の仕事と、日本ジャーナリスト協会という労働組合の広報担当者を支援する組織が主催したシンポジウムの講演録をまとめる仕事です。
前者は、大学の先生が難解な言葉で記述する周年史の別冊として位置づけられたもので、40年の歴史を写真とわかりすい記事でまとまることになりました。誌面レイアウト等の実作業は、大学時代からの友人でありデザイナーとして仕事を始めていた人間に委ね、私はもっぱら制作業務を俯瞰する立場で関わっていたのですが、面白いと思ったのが主体的に企画を提案すれば、仕事がより充実したものになるということ。受け身で仕事をするのと違った達成感がありました。
現在、当社は企画立案、コンセプトメイキングを重視した仕事を展開していますが、そうした仕事スタイルの原体験は、当時の周年誌の仕事。周年史のような仕事も、型にはまらず、斬新な発想で企画提案すれば、顧客にも喜ばれ、作り手としての達成感も味わえることを実感したのです。
同時に、「真似から学ぶ」ことの大切さを学んだことも貴重な体験でした。当時は「グラフティ」が一種のブームになっており、芸能から政治の世界まで歴史をグラフティとして編纂する手法が盛んに活用されていました。「全農林グラフティ」と名付けられた記念誌は、そうした編纂スタイルを真似たもの。まさに学ぶは真似る地で行く形で、企画が始まったのです。私は今、広報セミナーの講師として話をする時に、「学ぶは真似る。よい企画なら真似から始めてみよう」と呼びかけていますが、そのきっかけになったのが、周年誌の仕事です。
もう1つ印象に残ったのが、シンポジウムの講演録をまとめる仕事です。これは仕事史としては失敗談に位置づけられる仕事で、非常に恥ずかしい仕事ぶりをお示しすることになりますが、ご容赦ください。
当時は、携帯電話もICレコーダーもない時代。カセットテープレコーダーに音声を録音する形で講演内容を収めていくのですが、講演の本番中、途中でカセットテープレレコーダーの電池が切れてしまい、後半部分の音声が収録できなかったのです。おまけに、前日の友人たちとの会食で飲みすぎてしまい、講演時のメモはひどく粗いものに。テープ起こしをしながら途中で音声が途切れたことに気づいた時には、二日酔いの症状と重なって本当に真っ青になりました(今でも、その時の状況が夢に出てきます…笑)。
最終的には、主催者の方が詳細なメモをとっており、そのメモをもとに原稿を書くことができたのですが、もしそのメモがなかったらどうなかったことやら…。講演録を書き上げた後、私はメモをいただいた方から次のように諭されました。
「君は、仕事をどのように捉えているのか。ただ原稿を書いているだけだと思ったら大間違いだ。僕らは組合員、働く人のために労働組合活動をしている。講演録はそのための手段でしかないが、その講演録ができなかったら運動は進まない。運動が進まないということは、働く人の暮らしを豊かにすることができないことを意味するんだ…」。
リクルートの仕事を通して、働く現場を見てきたつもりになっていた私でしたが、見てきたものは表面的なものだけだと痛感しました。働く現場には、“仕事”をする場としての側面と同時に、“働く人”の生々しい現実があること。経営視点だけではそうした現実は変えられず、働く側の視点でも仕事をとらえない限り、仕事の本質はわからないと認識することになりました。
もちろん、その時の体験だけで、働く人をサポートする会社を作りたいと思ったわけではありません。しかし、働く人をサポートするために志を持って仕事をしている人・組織があることに感銘を受けたことは事実であり、そのことが、以降の私の仕事、人生に大きな影響を与えることになりました。
冒頭に、私は、“社員の夢だけ事業が拡がる会社”をつくりたいと書きました。その思いは今も変わっていません。ただし、長い仕事の歴史の中で核となる事業の方向性が形づくられていくのも事実です。働く人をサポートする企画制作会社であること。当社を志望し、仲間に加わってくれた社員たちも、働く人たちをさまざまな手段でサポートしたいという思いを共有しながら、日々仕事に励んでくれているように思います。