株式会社 アプレ コミュニケーションズ

NEXT Business & NEXT Persons
2021/05/24 更新

[第4回]書くということ。他者の人生・思いを追体験しつつ思索する行為

─会津という土地柄と幼少期の心象風景─

 私が生まれたのは福島県会津若松市。1958年の生まれですから、「もはや戦後ではない」と言われる時代に生まれ・育ってきたわけです。しかし会津には、第二次世界大戦とは別な意味での「戦後」が存在していました。幕末の戊辰戦争による「戦後」です。
 私の家の墓の中央には漢詩で書かれた墓誌が建っており、そこには会津藩で漢学を教えていたという祖先の生い立ちが書かれています。また、幼稚園の運動会では白虎隊の悲劇を描いた剣舞が行われ、年端も行かない幼児だった私も鶴ヶ城の炎上に痛哭の涙を流し、切腹するという、今から思えば少々ドキッとする様を演じた経験もあります。
 戊辰戦争とは、江戸時代末期の旧幕府軍と新政府軍の戦い。会津藩の松平容保は京都守護職として朝廷を守っていたにも関わらず、新政府軍によって逆賊のレッテルを貼られ、会津戦争で籠城虚しく敗戦を迎えます。白虎隊の悲劇を舞う園児に戊辰戦争の何たるかを知る由もありませんが、子ども心に敗れし者の悲哀や、一夜にして賊軍の汚名を着せられることの理不尽さを認識することになりました。
 会津で生まれたことが、私の人格形成にどんな影響を与えたかはわかりません。しかし、世の中にはさまざまな矛盾があること、そしてそこには強者と弱者が存在し、虐げられた者には厳しい現実から存在することを知ったことは、その後の人生観にも少なからず影響を与えたように思います。

─「物語」と「紙・インク」と「シナリオ」制作─

 直接的な意味で、少年時代の人格形成視に影響を与えたのは、親の存在です。母は毎晩のように昔話を語ってくれ、私は眠るどころか物語の続きをせかしたそうです。また、謄写版印刷を営んでいた父の影響も受けており、ヤスリ版の上に原紙を載せて鉄筆で文字を書き、ローラーを回して1枚1枚印刷する世界を身近に見ていた私は、いつしか自分で物語を書き、印刷をして他者に読んでもらいたいという欲求を抱くようになりました。
 そして小学校5年生の国語の時間、生徒たちがグループに分かれて創作劇を演じることになり、私の最初の「作品」が誕生しました。同級生と一緒にまとめたシナリオなので、オリジナル作品とは呼べないかもしれませんが、探偵物というよくあるストーリーを自分なりにまとめた体験は貴重です。その後、中学校の文化祭では2年間にわたって創作劇を制作・発表。3年生の時は、正規のクラブではないという理由で中止に追い込まれかけましたが、校長先生に直談判、上演にこぎつけました(卒業証書の授与式で、校長先生から「君のやり抜く力を大事にしなさい」と言われたエピソードも持っています/笑)。

─詩を書く、小説を書く、自己表現としての「書く」という行為─

 中学校から大学にかけての「書く」という行為は、専ら自己表現としての行為でした。思春期特有のナイーブさと傲慢さに溢れた中学時代は、寺山修司の詩を好んだこともあり、詩作が中心。時にその詩に曲をつけてギターを奏でたこともあります。
 高校時代は、寺山修司に習って「書を捨て町へ出よう」を実践したもののすぐに挫折。その後内向の時代に入り、時間があれば本ばかり読んでいました。ヘルマン・ヘッセ(最初は徐々的な初期の作品に、途中からは哲学的・思索的な作品が好きでした)、亀井勝一郎(人生論、恋愛論を読みつつ、思索の仕方を教わりました)に始まって哲学書や社会科学系の書籍までを読破。さまざまな知識をインプットすることができました。
 そして大学時代。最初は国文科のクラスを母胎にしたサークルー作って同人誌を発行。社会風刺を混ぜた小説等を発表していたのですが、ある日、全く別の「書く」という行為を体験することになったのです。

─仕事としての「書く」行為が加わり、「書く」事の意味を知る─

 私は大学入学後、リクルート系の編集プロダクションでアルバイトをし、「書く」ことを仕事にすることになりました。これまで、自分の思い、感情に 任せるまま書いていたスタイルが、取材をし、記事としてまとめるスタイルに変化したのです。
 この体験は、私の「書く」ことについての考え方を大きく変えました。これまで自分は書くことが大好きで、それなりに表現ができていると感じていたのですが、仕事として書くようになった瞬間、空疎で一人よがりの言葉が並んでいるだけ。自分の未熟な感情・思いを垂れ流すような文章しか書いていないことを思い知ったのです。
 アルバイト先では、上司にあたる方が、たくさんの赤を入れてくださいました。最初のうちは、赤字をなぞって直すだけでしたが、そのうち、なぜ赤字が入るのかがわかるようになってきました。しかし、いざ別な記事をまとめる段階になると、またうまくまとめることができずに赤字が入る。私は、書くことに全く自信を持てなくなりました。
 今だからいえますが、書くスキルは、人から教えてもらって身につくものではありません。何度も何度も書くうちに、いつしか言葉が自分のものになっていく。最初は言葉だげだったものから、何を伝えるべきかという文意も自分の中に取り込まれる。その繰り返しによって「言葉の神様」が降臨し、書けるスキルが備わっていくのです。
 こういうと、何度も赤字を入れてくださった上司や、教えてくださった先輩には申し訳なさでいっぱいになります。しかし、言葉とはそういうもの。言葉と自分が一体化、もしくはギリギリまで接近・交錯しない限り書けるようにはなりません。「書く」という行為と格闘し、言葉の裏にある取材先の思いや感情を受け止めること。そのことで、「書く」行為の土台が築かれ、さらに発信する社会の環境までを理解できた時、初めて時代にマッチした「書く」行為が確立されるのではないでしょうか。

─多様化する「書く」行為と、「書く」幸せ─

 学生時代から現在まで、実に多くの原稿を書いてきました。そして、そのことで多くの幸せを体験できたように思います。
 学生時代に多く経験した企業取材は、働くこと、社会に生きることの視野を拡げてくれました。そしてそれは、社会の中に生きる自分をみつめ直す機会にもなりました。
 学生時代、忘れられない仕事があります。それは、東京大空襲を生き延びた人々のインタビューをまとめる仕事で、アメリカ軍の攻撃を受けながら懸命に生き延びる人々の姿を記録した記事の制作です。私はその仕事を通して、戦争の悲惨さを痛感するとともに、歴史に翻弄されてしまうことへの怒りを感じることになりました(幼少期に感じた理不尽さと心象風景が重なったのかもしれません)。
 起業し、原稿制作や編集業務をメインに仕事をするようになると、さまざまなメディアからの依頼を受け、企業トップから有識者、文化人、市井の人々までを取材し、原稿にまとめる仕事が増えてきました。私は、被取材者が発する言葉を懸命に吸収し、どうすれば読者に届くだろうと考えながら原稿を書くわけですが、そのプロセスは、まさに取材先が発する言葉が「言霊」として自分の中に吸収されていくプロセスでもあります。人生は一度切り。希望しても複数の人生を経験するはずがないものの、ライターである私は、取材を通して他者の経験や思いを追体験させていただくことになりました。

─「書く」ことは「考え」を伝えること。そして「応援」すること─

 「書く」という仕事には、自分が著作者として関わる仕事もあります。他者の言葉を代わりに伝える立場から、自分の考え、思いを著者として伝える立場に変わるのです。
 私が最初に発刊した書籍は、1997年3月発刊の『全逓ルネッサンス』(2001年12月に続編である『地域と暮らしをポストがつなぐ』を発刊)。これは、郵政事業の民営化が叫ばれた時、地域には必要不可欠な郵便局という存在を、そこで働く労働組合の社会貢献活動を通し訴求しようとした書籍です。基本的な構成は、全国各地で実践されている社会貢献活動をルポしたものですが、著作である以上、そこには私の思い、思考が反映されます。つまり、他者の思いや考え方を追体験するのではなく、その思い、考え方を咀嚼した上で、どうあるべきなのかを論じるものが書籍であるといえるでしょう。
 ビジネス書やテキストを私の名前で刊行することもあります。最新版は、「結果を出す人のPDCA 100の法則」というビジネス書ですが、ビジネスパーソン向けの本を書く時に必ず意識していることがあります。1つは、平易で実践的な表現にすること。もう1つは、世の中の点在する知見を見極め、ふるいにかけることです。
 ビジネス書やテキストは、すぐに役立つことが大事です。そのために難解であってはいけませんし奇をてらう必要はありません。また、ビジネス環境が変化している中、さまざまな知見が生まれていますが、玉石混淆であることも事実です。一人のビジネスパーソンとして、また多くのビジネスパーソンと向き合ってきた経営者、そしてライターとしての知見で玉石混淆を見分け、真に役立つ書籍にできたらと考え、執筆しています。

 会社は今年設立30周年ですが、「書く」という行為の原点は幼少期。そして、書くための能力が損なわれない限り、これからも書き続けていくだろうと思います。それは「書く」ことが他者の人生・思想を追体験できる行為であり、かつ自分の思索・人生を進化させ・充実させるものであるからです。その意味で私はとても欲張りな人間なのだと思いますが、皆さんにはこれからも、発注者として、読者として、末永くおつきあいください。「書く」という行為を通して必ず恩返ししますので。