2011年3月11日、東北地方を中心に東日本一帯が巨大地震に見舞われました。また、その後の津波によって多くの人々・町が流され、福島県では原子力発電所のメルトダウン、水素爆発によって放射能への恐怖が現実のものとなりました。
警察庁の発表によると、2021年3月9日現在、死者数1万5,899人、行方不明者2,526人と実に多くの人の生命、人生が奪われたことがわかります。また、避難生活等で亡くなった方を含めると2万2,000人の人々が犠牲になっています。
今年は、東日本大震災から10年という節目の年ということもあって、さまざまなメディアが東日本大震災を取り上げていますが、いまだ復旧・復興は道半ば。避難生活を余儀無くされている方は大勢いらっしゃいます。また、全国各地に大切な人々を失った悲しみから解放されることのない日々を送っている方が存在し、その傷は癒えることはありません。
地震発生当時、私は社員とともに飲料系メーカーの労働組合のホームページのプレゼンに赴いていました。提案した企画内容は概ね好評で、受注できるかもしれないとの手応えを感じていたのですが、突如、激しい揺れに見舞われました。プレゼンから安全確保へ。場面は急展開し、その場にいた人間は一人残らず机の下にもぐり込み、揺れの収まるのを待ちました。その時間は相当長く感じられ、隣にいた社員は途中で様子を見ようと机の下から出ようとしました。私は、「今はまだ出ちゃいけない」と彼女の頭を押さえ込んで揺れが収束するのを待ったのですが、10年経過してなお、その時の光景が鮮明な記憶として残っています。
顧客の元を出た私たちが真っ先に向かったのは、コンビニエンスストア。社に食糧や飲料がどれだけあったか不安に思った私は、彼女とコンビニに入り、社員分を購入しました。
そして袋をぶら下げながら会社に向かって歩いていたのですが、同じように通りを歩く人の眼は虚ろ。時折起こる笑い声も、緊張をほぐすための無意識の行動のように聞こえました。また、至る所でビルの窓ガラスが割れ、看板がとれかかって落ちそうになっているビルも…。私たちはそうした光景を右・左に見ながら帰路を急いでいたのですが、会社近くまで来た時にお世話になっている方々に遭遇しました。「こんな時にこんな所で」と笑い合った私たちでしたが、お客様の口から信じられない言葉が。「九段会館で会議をやっていたら、天井が崩落して…」と怯えるように話してくださいました。
会社に着くと、多くの社員がネットやテレビ等で情報収集にあたっていました。幸いにしてケガ人もなく、ビルも機器類も無事でした。取材で外出していた社員がいたので心配でしたが、すぐに安全を確認。自宅の方が近いということだったので、そのまま帰宅させました。他の社員については、会社にいた方が安全だと判断し、どうしても帰らなければならない社員を除いて、会社に宿泊することにしました。そして帰社する際に購入した食糧や飲料を配った後は、私も情報収集にあたることにしたのです。
テレビは、全体像を把握できない状況での断片的な情報を流していましたが、NHKのニュースがショッキングな映像が飛び込んできました。みるみるうちに、町並みをのみ込み、人をのみ込んでいく津波。到底、現実のものとは思えない光景でした。しかし隣を見ると、名取市に兄弟がいるという社員の横顔が。その真剣な眼差しとやや青みがかった表情を見た私は、「心配だね」という声しかかけられませんでした。
翌日は、電車も動き出し、社員も三々五々帰宅することに。私は、秋葉原まで歩いて帰り、パン屋さんで食事をとりながら、これからどうしたらいいかを考えました。社員の安全をどのように確保するのか。仕事をどのように進めていけばいいのか。その日を機に、バタバタと震災「後」の対応が始まりました。
私は、福島県会津若松市に生まれました。今も親戚がいますし、墓参りにも出向きます。会津若松市は、福島県といっても内陸部にあり、津波の影響はありません。むしろ、津波や原発事故から逃れてきた人々の避難場所になることが多く、私が生まれた家近くの、鶴ヶ城のお堀に面した工場跡地(私が生まれた頃は高校でした)には大熊町役場の出張所が開設されることになりました。
また、仙台近郊には学生時代の友人もおり、仕事の対応に追われながらも可能な限り早く被災地に赴きたいと考えていました。そしてその願いを知っていたかのように、仙台で講演の仕事が入り、その足で被災地を見て回ることにしたのです。
最初の被災地訪問では、2つの発見がありました。
1つは、郡山駅周辺での人々の奇妙な動き、新幹線の乗客の多くがおもむろにマスクを着けだしたのです。今でこそ、マスクを着用するのは当たり前の生活様式になりましたが、当時は新型コロナ感染症は発生していません。私は「なぜ、マスクを」と首を傾げましたが、すぐに理由がわかりました。新幹線の乗客の多くは、福島第一原子力発電所の放射能漏れを恐れてマスクを着用したのです。
今もなお、福島県産の魚や野菜は放射能に汚染されているのではないかという風評が流れていますが、2011年当時はどれだけの放射能が漏れだしているのかわからない状況でした。乗客の行動に理解はしたものの、一方で、新たな差別が生まれていることへの不安を感じたところです。
もう1つの発見は、何もなくなってしまった被災地の“臭い”です。顧客の車で被災地を案内された私は、途中から気分が悪くなってしまいました。我慢できないほどではないのですが、車に酔ってしまったような状況に陥ったのです。
ところが、震災前に町だった場所に案内され、震災後は土砂以外何も残っていない状況を見せられた時、体調の悪さの原因がわかりました。“臭い”。そこで生活していた人々の“臭い”が私の体調に影響を与えていたのです。
地震や津波がなければ、目の前にある土地は活気のある町だったはずです。人々も思い思いに生活を営んでいたでしょう。ところが一瞬のうちに、町も人々も土砂の中に埋められてしまった。鉄骨等の油や錆、そして体臭、そして人々の無念さが“臭い”となって現れているのではないのかと考えました。
私は、無防備に地面だけをさらけ出している場所に立ちすくみながら、“臭い”しか残せなかった人々の無念さに涙をこらえることはできませんでした。
その後、被災地には取材や講演で何度も行かせていただいています。そして行く度に、“臭い”は軽減されていくのですが、そのことが、東日本大震災の風化を意味しなければいいなと思う、私がいます。
今回、東日本大震災のことをテーマに書こうと決めたものの、実際に何を書けばいいのか大変悩み、迷いました。多くのメディアがいろんな切り口で報道していますし、今さら感があったからです。
そんな時、ふと思ったのが、今回は事実だけを書こうということ。論評するのではなく、自分自身の記憶の風化を少しでもくい止めるためにも、当時の出来事を記録として残そうと考えました。
10年という歳月は長いようで短く、短いようで長いものだと思います東日本大震災を知っている人も知らない人も、「3・11」が、自分をみつめ直す日になることを願っています。